リストでチェックしていること
2007.10.30
チェックリストの中身は、「ベック式」など有名なものとそれほど違いはありません。違いを挙げるとすれば、「眠れない」に関する項目と「体重が減った」に関する項目が抜けている程度でしょうか。
うつ病の主症状としては、まずは睡眠と体内時計の狂いに関係するものがあります。
・寝付かれない
・寝てばかり
・寝覚めが悪い
・急に目が覚める
などです。これらが生じるのはおそらく、セロトニンなどの神経伝達物質の働きに問題が生じているせいでしょう。
それから、思考、特に決断に関する問題がよく指摘されます。
・決断できなくなる
・人の意見が過剰に気になる
などです。特に、日常や会社では細かな決断を迫られることが頻繁にあるため、これはつらいものです。こうなるのは極端に自信がなくなることと、想像力を働かせるのが困難になることなどが、ひとつの要因として考えられます。
そして、快感が鈍くなること。快感に限らず、感覚全般にかげりが落ちるようになるのですが、
・食欲不振。食べ物の味がしない
・性欲減衰
・社交的欲求の減退
・テレビや娯楽に対する興味が失せる
などです。これもおそらくは、感覚系を支える神経伝達物質の働きが弱まるから起きるのでしょう。
そして、自殺念慮。不適切な罪責感などとともに非常によく指摘されます。ふだんは特に寂しがるわけでもない人が、急に誰か通らずにはいられなくなるなどという「症状」も一般的です。
ではどうしてこういうことになってしまうのか?
それが実は、よく分かっていないのです。
まじめすぎる性格。働き過ぎ。不眠不休。ストレス脆弱性などが指摘されますが、どれにも当てはまらないけれどうつを発症した、という人も少なくありません。遺伝子の影響もよく指摘されています。
ただ、原因は分からなくても、主症状はかなりはっきりしているため、症状のいくつかを「持ち合わせ」ている人は、とりあえず「うつ」と診断されることになります。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.30 18:42
うつ病チェックリスト
2007.10.29
ただ、昔と違って今では、相当数の臨床データをもとにした「チェックリスト」があります。特別難しいものでも恐ろしいものでもないので、とりあえずやってみるのもよいでしょう。
うつ病チェックリスト
http://www.jns.info/cgi-bin/check/utu.cgi
質問内容を読めば、少し詳しい人ならば「あぁ…」と思うものが少なくないはずです。また勘のいい人なら、「自覚症状」に関する質問が圧倒的であることにすぐ気づくでしょう。
これは、肉体の病気は「原因」というものを特定できるのだと、ある程度なら言えるほど医学が進んでいるのに対して、精神障害は「原因」を追求しようとすると、色々な点で話が非常に難しくなってしまうことと、関係しています。
たとえば、お腹が痛ければ、「何か悪いものを食べましたか?」という質問もありでしょうが、「うつ病チェックリスト」を読んでどこにも、「最近、ひどくイヤなことがありましたか?」とか「ひどい叱責を受けましたか?」などという「過去のことを聞く質問」がないのです。
それほどまでに精神障害についての視点は、「症状」に絞られているということです。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.29 18:39
文章を読むエネルギー
2007.10.27
それはよく指摘されるところですが、「原因」については色々といわれています。ある方はコミュニケーションに問題があるといい、他の方は過労が問題だといいます。
いずれも現場で働いている方たちの言葉ですから、間違いないと思いますが、私がふと考えたことが、「パソコンで大量のテキストを、それも日本語ではない文章を読む」という職業の特殊性です。
脳にとって、「文章を読む」ということは容易なことではありません。まだまだ分かっていないことも多いのですが、脳をもつ動物がこれだけいる中でも、文章を読めるのは人間だけです。
その人間でさえ、2世紀以上さかのぼれば、大多数が「文盲」でした。現代でも文盲率がかなり高い国がいくらもあります。文章を読むということは、「人間であれば当たり前に出来ること」では決してありません。
しかも、母国語であればまだしも、SEの人が「読み書きする」のは「プログラム」という非常に特殊な言語です。それも、PCの画面で読みます。これまで長いこと人類は、文章というものを紙で読むだけでした。テレビで文章を読むことがかなりやっかいなように、紙以外のメディアで文章を読むのは、かつてはほとんどないことでした。(木版や石版はここでは考慮しません)。
実際の所、かなり短い日本語の文章をPCで読むのも、相当疲れるのです。これは21世紀に特有の問題だと思います。しかし、SEの人はふつうの人よりもずっと長時間、「プログラム」を読みます。それによって生じる精神的疲弊は、まだ十分検討されていないのが実情ですが、特異なレベルにある可能性はあります。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.27 23:47
原因、症状、対策
2007.10.26
という記事が、昨日の産経新聞に掲載されたようです。その中に、次のような一節がありました。
情報システム会社に勤務する山田一郎さん(34)=仮名=は昨年8月、産業医との面談で3カ月の自宅休養を指示された。鬱病が強く疑われたためだ。山田さんの会社は同年4月、同業企業と合併。職場環境が大きく変わった山田さんは、1カ月後に仕事上で大きなミスをし、新しい上司に強く叱責された。この後、不眠や食欲不振などの症状が続いた。(太字は佐々木による)
この事例は典型的に過ぎると感じられるほどです。30代、情報システム会社勤務、職場環境の激変、新しい上司、叱責…その後の不眠や食欲不振。
この心理状態に至る流れにはやはり、脳神経システムにおける、ストレス耐性機能の限界と、報酬系システム駆動の限界、そしてそれらの活力を回復させる機能の停止(または極端な衰弱)が主な要因となっている、と考えるのが妥当でしょう。
私が派遣社員として働いていた10年ほど前ですら、こうした話は取りざたされていました。(産業カウンセラーという言葉もありました)。けれども、産業カウンセラーにかかる人はおろか、産業カウンセラーの姿を見た人は、少なくとも私の周りにはいませんでした。
この記事の中にもあるとおり、「メンタル疾患を自発的に相談する人はまずいないといってもいい」という状況は、現在でもなお続いているようです。とすると、ごく一般的な認識で言うと、10年前からほとんど変わっていないことになります。
実際に病気になってしまえば、やはり手を打つと思うのですが、その前の段階では、なにもしないという人が多いのはうなずけます。肉体の病気でさえ、そういう人が多いわけです。(ちなみに「脳」の病気とは言え「肉体の病気」と言うべきだと、個人的には思っています)。
しかし「うつ」は、症状も兆候も、知識さえあれば誰にでもそれと分かるほど色々とあるので、「かかる前」は無理にしても、「かかった直後」には手を打ちたいものです。記事中にも「鬱状態になってから医師に相談するまで3カ月が経過しており」とありましたが、これではパンクしたタイヤで高速道路を走り続けるようなものです。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.26 18:45
勝ち組と負け組とソウとウツと
2007.10.25
闘争に勝ってそれなりのエサにありつけたネズミは、より支配的になっていき、人間で言えば「躁状態」を示すようになります。
逆に、闘争に敗れ、乏しいエサにもありつけないネズミは次第に無気力の様相を示し、人間で言えば「うつ状態」に陥っていきます。
この実験結果をもって、人間社会への躁うつ症を説明しようとするモデルを、支配―服従モデルといいます。この流れで見る限り、競争の熾烈な社会ほど、躁うつ症がよく見られる、という可能性を指摘できるでしょう。
一般的に、このモデルをそのまま人間社会に適用するのはあんまりだ、ということで、あまり躁うつを説明する際に、支配―服従モデルが用いられることはありません。
人間社会には福祉というものもあるし、食べ物を噛み合って奪い合うほど単純な闘争が見られるわけではないので、支配―服従モデルで躁うつを説明するなど不可能だ、ということです。
それはそのとおりでしょう。
しかし、最終的に慎重な臨床試験が何度となく行われるとは言え、精神治療に使われる薬品は非常に多くの場合、ネズミに投与して試験されます。効くか効かないかということも、ネズミをわざわざ「うつ病そっくりに」したてあげることで確認するのです。
つまり、「うつ病そっくりの」精神障害を持たされたネズミに、「うつ病の試験薬」を投与してみて、それで効果があるとなったら、いよいよ私たちのためのクスリとして使うかどうかの、検討段階にはいるのです。
ネズミはそれほど活用されている(と同時に人体実験はそもそも不可能)わけですから、ネズミの社会モデルも、もう少し私たちの社会について、参考にしても良さそうに思えます。
むろん、私たちの社会の「闘争」ですから、噛み合うとかどつき合うというよりは、はるかに認知的・心理的なものを考慮するべきでしょうが。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.25 17:23
注意する対象をはっきりさせる
2007.10.23
たとえば、フロイト派のセラピストなら「抑圧」のせいだというでしょう。「食べた」ことを認めたくない心理機能が働いて、「食べなかったこと」にしたがっているのだ、と。
と書きました。岡田斗司夫さんが、現在進行で食べているものについて、記録を落としそうになったことへの、深層心理学(精神分析学)的な説明です。
思いっきりひどい事例、たとえば幼少期にレイプされたとか、たばこの火を押しつけられたといったことであれば、そういう「おぞましい体験」を覚えていたところで、それへの対策を幼児に打てるはずがないのですから、「意識の底に沈めて、忘れてしまう」というのも立派な対応方法です。
それが、抑圧と呼ばれるものです。
一方で、もっとずっと軽い抑圧なら、私たちの日常の中にいくらでも登場します。このことは、自分の作業記録をとろうとしてみれば、すぐに分かるでしょう。
あまり書き留めたくないことが、たくさん出てくるはずです(勉強しようと思った直後にテレビを見始めたことなど)。書き留めずにおけば、それらはすぐに忘れることができるのです。
しかし実際には、人が「忘れてしまいたい、意識などしたくない」と思っているのは感情なのです。事実そのもののことではありません。
「イヤな出来事」と一言でいいますが、実際のところ問題なのは、出来事にまとわりついている雰囲気、その色合いといったものです。それらは出来事の属性ではなく、出来事に対する感情が、雰囲気や色合いを感じさせているのです。
これらを分離すること。つまり、出来事から、出来事に対する感情を分離し、感情は忘れて、事件は忘れないようにすることで、出来事に対処することができるようになります。
というのが、深層心理的な「レコーディング」の意義だと考えられます。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.23 19:05
レコーディング・セラピー
2007.10.22
本日の表題は、『いつまでもデブと思うなよ』(新潮社)の著者、岡田斗司夫さんのアイデアから拝借したものです。
岡田さんは、一年間で50キログラムというすさまじいダイエットに成功した初めの一歩として、「食べたモノをひたすら書き記録し続けること」が欠かせないといいます。 そしてこれを「レコーディング・ダイエット」と銘打ちます。
なぜ、「書いただけ」でやせられるのか?
この答えが知りたい人は、本か2007年11月6日発売の「日経ビジネスアソシエ」をお読みになってください。
![]() | いつまでもデブと思うなよ (新潮新書 227) 岡田斗司夫 新潮社 2007-08-16 by G-Tools |
![]() | 日経ビジネス Associe (アソシエ) 2007年 11/6号 [雑誌] 日経BP社 2007-10-16 by G-Tools |
この本の中で、私が一番重要だと思えたパートは、次の一節です。
まじめに記録し続けて二週間。「面倒だなぁ」と思いながら自分の食べたものを「食事記録」と題したテキストファイルに黙々と書き込んでいたときのことだ。 書いているうちに小腹が空き、ファンタとおかきをつまみながら、書き続けた。で、気づいた。
(うぉう!危ねぇ。あやうく、おかきとファンタ書き忘れるところだったぜ) あわててそれも書き込む。
……あれ? …… なんで書き忘れるんだろう?
何ででしょう?
この問いに答えることで私は、人が心理的につまずきやすいポイントの、核心に触れることができるのだと思います。
たとえば、フロイト派のセラピストなら「抑圧」のせいだというでしょう。「食べた」ことを認めたくない心理機能が働いて、「食べなかったこと」にしたがっているのだ、と。
ほぼ間違いなく一理あるはずです。
行動心理学に重きを置くセラピストなら、こう言うでしょう。「すべてを書きとめる習慣が身についていないからだ。報酬と罰で、学習あるのみ!」
これにも一理あります。
実はこの話、仕事や人間関係のつまずきでも、非常によく似た「症状」と「対策」に通じていきます。そういうお話を、また明日以降。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.22 13:51
腹が立ったら何かしましょう
2007.10.19
その方は先日、美容院でイメージと違うふうにカットされてしまい、大変腹を立て、家に戻ってもげんなりして何もする気がしなくなったけれど、いつまでも落ち込んでいても仕方がないと思い直し、部屋の掃除を始めたらとてもきれいになった、というエピソードを話してくれました。
この話を私流に解釈すると、まず
掃除ができました←なぜなら「脳」がやる気をたくさんくれたから
「脳」がたくさんやる気をくれました←なぜなら
(1)掃除を片づけられるという見通しがあったから
(2)部屋がきれいになるということは未来がよりよくなるから
(3)「怒り」のエネルギーを転用したかったため
このように、怒りのエネルギーを転用すると、思いのほか仕事がはかどることがあります。
気をつけたいのは、「転用」それ自体にもエネルギーが必要なため、「いつまでも落ち込んでいても仕方がないと思い直す」というステップが欠かせないところです。
この「切り替え」のステップを踏むためには、「水を飲む」というライフハックが役に立ちます。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.19 17:33
モノにも同情したくなる
2007.10.17
今月号のタイトルは、「“物体”に対しても活動する同情ニューロンの存在が「もったいない」の源なのでは」というものでした。
どちらかといえば「唯物的」な私は、このタイトルに違和感を覚えたのですが、読んで改めて考えてみて、納得しました。
「同情ニューロン」とは、たとえば親しい人が注射されているところを見ると、腕に痛みのような感覚を抱くことがありますが、それを実現する脳神経系の働きを指しています。
べつに親しい人でなくとも、たとえば映画のシーンなどで子供が痛い目に遭っているところを見れば、苦痛を覚える人は少なくないでしょう。
これは、人間以外の動物が痛がっているところを見ても、働くでしょうか? おそらく働くでしょう。人間は、ペットが悲しんでいるところを見ると、悲しくなったりします。
では、これは物体が壊されているところを見ても、働くものでしょうか?
この点について、どうやら働くらしいということを述べているのが、池谷さんの記事でした。私はその点について、読む前には違和感があったわけです。
でも考えてみると、たとえばガラス細工のお人形が、ハンマーでたたき壊されるところを見れば、何となく感じることがあります。(痛みとはいわなくても)。人間が「生命」を感じる対象は、生物とは限りません。
精巧な人形が動くところに、「生命」を感じてしまうのは、よくある心理的錯覚です。アニメーションについても同じでしょう。
このように、人間…動物…物質と、幅広い対象に働く「同情ニューロン」の存在と、「モノの中に仏性を」見たり「霊魂を」感じたりする話がリンクしているのは、もちろんです。
ですが私としては気になるのが、むしろ逆に、そうした「同情ニューロン」が強く働くためにこそ、人間特有の残酷さや暴力性を生み出しもするのではないか、という点です。
池谷さんも記事中で、「もったいないという感情を押し殺して…モノを捨てなければならない」ということを書いています。
つまり私たちは生きていると、「同情ニューロン」の働きに対して、リアクタンス(反抗)しなければならないことがあります。
「同情ニューロン」がなければ、人間はこれほどの社会性を獲得することは、おそらくできなかったでしょう。しかし「同情ニューロン」が働かなければ、人間特有の暴力性とは、無縁でいられたかもしれません。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.17 16:02
記憶の動的平衡
2007.10.16
![]() | 生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891) 福岡 伸一 講談社 2007-05-18 by G-Tools |
この本には、「ダイナミックな平衡」という概念がよく登場します。人はモノを食べ、食べた物によって肉体の構成は変化しているはずなのに、一個体としてのアイデンティティは保たれる、なぜだろう?
どんなモノでもそれがモノである以上、いつかはアインデンティティが破壊され、「死ぬ」時がやってきます。
ただ、そのときが来るのをじっと待っているのでは、それは生物ではなくて無生物です。生物であれば、風雪に破壊される前に自らの一部を破壊し、代わりに新しいモノで補う。そのためにモノを食べ、パーツを更新していく。これを「動的平衡」と呼んでいるようです。
この話からは、心理学者なら誰もがすぐ、「記憶」のことを連想してしまいそうです。私たちの記憶のコンテンツ、脳の構成パターンなどは、日々変化しています。
けれども、その変更が1日、7日、30日、365日、そして百年という月日が流れてさえ、「私は私」というアイデンティティ保たれ、受け継がれていきます。
動的平衡という概念から見るなら、このようなことは、一部の記憶をあえて放棄し、代わりの記憶パターンを、自然にもたらされる脳内環境の変化に先行して更新するからこそできる、ということになるでしょう。
なんだか難しくなってきましたが、こう考えると、自我にとっての記憶というモノが、肉体にとっての食べ物・栄養に近いものであることが、何となく感じられてきます。
肉体の健康のために、食べ物に気をつかう人は非常に多くいます。ならば、精神の健康のためには、記憶に気をつかう人がもっと多くいても、良いような気もします。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.16 15:06
パニック障害
2007.10.15
日本のパシフィック・リーグでは、日本シリーズ出場をかけて、北海道日本ハムと千葉ロッテが対戦しています。
子供の頃から千葉ロッテを応援してきた私としては、今年も当然のようにロッテを応援しながら、乏しい時間を削りつつ野球に見入ったりしているわけですが、北海道日本ハムには個人的に注目せざるを得ない選手がいます。
小谷野栄一選手です。
この選手になぜ注目がいってしまうかというと、実は以前この人は、パニック障害を患ったことがあるというのです。
日本ハム小谷野が病魔克服の快気祝砲
パニック障害については、ウィキペディアに詳細がのっていますので、そちらをごらんいただきたく思います。定義としては、次の通りです。
パニック障害
定型的なパニック障害は、突然生じる「パニック発作」によってはじまる。続いてその発作が再発するのではないかとおそれる「予期不安」とそれに伴う症状の慢性化が生じる。さらに長期化するにつれて、症状が生じた時に逃れられない場面を回避して、生活範囲を限定する「広場恐怖症」が生じてくる。
パニック障害を患いつつ、プロ野球選手としてプレーを続ける。これがいかにすごいことか、心理学を学んだものとしては、感服に耐えないとしかいいようがありません。
私には、大学時代の友人に一人、パニック障害と診断されている人がおります。彼と4年間つきあっただけでも、パニック障害という障害が、生活を非常に困難にしてしまうことが、容易に理解されます。
特に問題となるのはたとえば、心臓が異様に高鳴ってしまって、心臓が止まってしまうのではないかという不安、その不安がますます心拍を高めてしまうという悪循環。人によっては幻覚・幻聴に悩まされることもあって、常識では野球選手などとてもできないはずです。
というわけで、個人的には大変複雑な気持ちになる、今年のクライマックス・シリーズなのです。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.15 22:16
自然という他律
2007.10.14
というエントリの中で大橋悦夫さんが、「アフォーダンス」という心理学用語にふれられていて、
アフォーダンスとは、あるものを見たとき、自然と「それ」をしたくなるようにあつらえられた状態。http://blog.pasonatech.co.jp/ohashi/tb/4559
と説明されています。
大橋さんが例示しているとおり、「アフォーダンス」の多くは、人工的な「あつらえ」であって、自然のモノではありません。古代の世界のドアに「ノブ」があったかどうか、甚だ疑わしく、取っ手のついていないコップもたくさんあったことは疑いようもありません。
そもそも、人類誕生以前の時代に、ドアノブなどあったはずがないわけです。(たとえ、一部霊長類にとって「ドアノブ」があれば、使いやすかったはずだとしても)。
「あつらえ」でありながら、「自然と「それ」をしたくなる」ということは、デザイン工学を初めとする、「人間工学」研究の成果です。ですが、人工的空間を「あつらえる」ことによって、「自然の」欲求を引き出すことは、新しい苦労のきっかけにもなります。
先日まで三日間、私は長野県の乗鞍高原へ、休暇をかねて旅行をして参りました。そこで印象的だったのが、夜の早さ(山時間)と夜の暗さでした。まったく都会の生活というのは、精力的かつ、活動的だと思いました。(午後6時には真夜中)。
「ドアノブ」のような人工物と違い、あの夜の早さと暗さは、ほとんど「暴力的」といってもいいほどです。暴力的が言い過ぎなら、「強圧的」です。しかしだからこそ、あの「夜」に逆らうのは並大抵の苦労ではありません。あの「概日リズム」に逆らわなければ、「うつ」などの発症率はかなり抑えられるでしょう。
もちろん、「自然へかえる」のはコストがきわめて大きく、「本来人間はそうあるべき」と口にしてもあまり意味はありません。ただ、心理的に病んだら一時的にせよ「自然へかえる」のも1つの方法かもしれません。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.14 23:29
他人がなぜこわいのか?
2007.10.10
たとえ仕事の会議中に、よいアイデアを思いついても、ぼくはそれを発表することができないんだ。だって、人前で発言するなんて、考えるだけで恐ろしくなってくる。
『他人がこわい』(紀伊國屋書店)
この『他人がこわい』の中では、他人がこわくなる原因というものを、4類型に分類しています。
こうした分析は、とても有益です。というのも、人は様々な感情を、原因も印象もまぜこぜにして扱っていますが、その感情が問題をもたらし、そして問題を解決したいと思うなら、原因を特定しなければなりません。
二人のフランス人筆者は、他人がこわくなる原因を、状況の性格に沿って分けています。すなわち、
1.他人の前で発表する不安
2.異性や未知の人と会話する不安
3.他人に要求した自己主張する不安
4.他人に見られる不安
1や2は多くの人が感じる不安で、きわめて正常なものです。3から4は少し少数派に属する不安で、感じない人は感じません。
そして、1から4まですべての状況において、突きつけられている課題があり、不安はそれがうまくできるかどうかについての感情、とされています。突きつけられている要求は、それぞれ以下の通りです。
1.みんなの前で実力を発揮しなければいけない
2.うまいことを言って相手を楽しませたり感心させねばならない
3.自分の権利を承諾してもらわねばならない
4.いつもと同じように他人の前でも振る舞う必要がある
これを見ると1や2に比べて、3や4で「不安を覚える」と、生活が難しくなることがよく分かります。たとえば人目が気になってふだんできたことまでできなくなるのでは、孤独な生活を送る以外になくなります。
あるいは、当然自分が主張して良いようなこと、たとえば土砂降りだから駅まで車で送って欲しい、と家族の人に頼むときにすら不安を覚えているようでは、生活が困難になります。
「他人がこわい」人は、まずは自分が、どの程度「当然の」(あるいは不適切な)状況で、「不安を覚える」のかを、詳しく知ることが肝心です。それが「他人がこわくなくなる」第一歩となるはずです。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.10 14:34
ストレス解消あれこれ
2007.10.09
「女なら、おいしいものを食べる、温泉、エステ、カラオケ、買い物、習い事、いくらでも思いつくんだけど。」
ということですが、「エステ」に行ったことは本当に一度もないため、これがストレス解消になるということをイメージすることはできません。
しかし、うまいもの、温泉、カラオケ、買い物は男であってもストレス解消になるでしょう。
このエントリに
酒を飲む?酒飲んで愚痴るってあんまストレス解消にはならない気がする。
とありました。性格にもよるでしょうが、酒飲んで愚痴るのはストレス解消になりそうです。おいしいものを食べるということと、同じ程度の効果は期待できるでしょう。できればお友達と一緒だと効果大です。
ストレスというのは、ごく基本的には、行動を促すための生理的な反応なので、ストレスに対する適切な行動を起こしさえすれば、自然と解消されるということもあります。
が、それが難しい場合、何らかの方法を使って反応のエネルギーを消費してあげる必要が出てきます。行動も起こさないのにエネルギーだけ体内に残ると、それが軽微なものであろうと、害になるからです。
そういう意味で、買い物は行動しなければいけないし楽しいからいい手だと思うのですが、お金がかかるので、お金がかからない方法がよければ、散歩といったところでしょうか。
でもこれだと地味で面白くないため、もっと華々しい方法として、遠くの屋台まで自転車で出かけ、劇辛カレーとかラーメンなどを食べるのも一法でしょう。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.09 18:20
他人はコワイ
2007.10.08
この本、日本人が書いたのではなく、カタカナになっていたので、初めてっきりアメリカ人が書いたのだと思っていました。
それで私は少し気になったのです。「アメリカ人が「他人がこわい」本を書いたのか…」と感心したのです。
私自身の留学体験では、アメリカ人にも「他人の視線」を不安視する感覚はあります。しかし日本人が言うような、「対人恐怖症」や「赤面恐怖症」はあまりよく理解してもらえません。
そういう文化的土壌がない、と言ったら言い過ぎかもしれませんが、それに近い感じなのです。
日本の教育では、少なくとも私が学校の団体生活を営んできた限りでは、「自分の出しどころと抑えどころ」をかなり強く意識させられます。「引っ込み思案」も注意されますが、「出しゃばり」もよくいわれません。
この手の、「プラスもダメだしマイナスもダメ」という方針の、勘所をつかむのはかなり難しいものです。単純に、「出れば出るほどいい」というのであれば、実はそう難しくないし、「とにかく万事控えめに」というのでも難しくはないのですが、「みんなに好印象を持たれる程度に、自己主張せい」と言われると、考えてしまいます。
生まれつき、どちらかと言えば恥ずかしがり屋な人が、そういう難しい要求を突きつけられて、手ひどい失敗をしたりすれば、「赤面恐怖症」くらいになっても不思議ではありません。
しかしどう見てもアメリカの学校教育は、「とにかく自己主張せい」でした。そのため、日本では引っ込み思案になったり、対人恐怖しかねない私が、アメリカではそんな気持ちにはなりませんでした。「とにかく前面に出す!」というシンプルな戦略は、引っ込み思案の人間にとってこそ、助かるところがあります。
そんなアメリカ人でもやっぱり「他人がこわい」のか…そうかあ…と思ってよくよく手に取ってみたところ、『他人がこわい』の著者は二人ともフランス人! なるほど。それならわかる。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.08 19:38
「ゴロゴロする」という療法
2007.10.06
でもこれが難しい、という生真面目な方が多いようです。
たしかに、ゴロゴロするということには生産性がありませんし、怠けてでもいるように感じられるのでしょう。しかし、たとえばうつの人にとっては、ゴロゴロしているだけでも、決してそれがラクというわけではないのです。
あまり話題にはなりませんが、たとえば睡眠をとるためにも、ある程度のエネルギーは必要ですし、特殊な神経伝達物質も必要です。それすらもなくなると、どれほど疲れていようと、眠ることすらできなくなります。
これはちょうど、ガソリンスタンドの手前でガス欠を起こしてしまったようなものです。こうなったらたとえば、「JAF」に電話するのが賢明です。
それがカウンセリングや心療内科に通うということの意味です。もしもガソリンスタンドが目の前にあるなら、車を押すのも良いでしょう。それはある意味で、ゴロゴロするということと似ています。
クルマを人力で引っ張るのは、全くナンセンスなことのようですが、それはナンセンスな作業ではないでしょう。それにとても疲れます。生産性は低くても、疲れるのです。これも、うつの人のゴロゴロと似ています。
もちろん、通りすがりの親切な人から、一時的にガソリンを分けてもらうということも出来ます。それでクルマは走り出すでしょう。
でもそれは、抗うつ剤などで一時症状を軽くしただけのこと。分けてもらったガソリンで遠出してはいけないように、抗うつ剤で調子がよくなったからといって、いきなりもとどおりに活動してはまずいわけです。そんなことをしては、またすぐガス欠になってしまうでしょう。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.06 16:44
フロイトの「耐えられる部分」
2007.10.05
近年になってところどころで、「フロイトの再評価」が始まっているようです。この特集記事のタイトルも、いつも通りに皮肉っぽく「よみがえるフロイトの威光」です。
フロイトといえばほとんど予備知識のない人にすら、いささかうさんくさいイメージがつきまとうようです。それはむろん、「性欲」によって人は突き動かされている、というようなテーゼと関係しているはずです。
特にフェミニズム系の心理学者の中には、フロイトをとことん嫌う人もいます。
何しろフロイトは、女性を「不完全な男性」と位置づけ、女性は男性性器をもつことができないことを残念がり、「ペニス羨望」という欲求を「抑圧」して無意識の底に沈めてしまった、などという理論を展開したほどだからです。
フロイトの名声が一番落ち込んだのは、ほぼ間違いないなく1990年代です。その責任は、明らかにフロイト理論の中にあると思われますが、1990年代にアメリカで最もひどく攻撃されたのは、むしろ時代状況と関係がありました。
1991年といえば、旧ソ連が崩壊した年であり、冷戦に「勝利した」アメリカ合衆国の自信がピークに達した時期でもありました。人は「内的葛藤」とか「不安」とか「抑圧」といったことと、無縁に生きられるような「理想的な人生」を送ることは十分可能である、という自信に、アメリカ全体が満ちあふれていたのです。
9/11のテロ以降、政治状況に合わせて文化状況も一変してしまったわけです。アメリカ全体が明らかに、1990年代に比べれば自信を喪失し、そのことと「フロイトの復活」とが、深く関係しているのでしょう。
とは言うものの、フロイト理論全体を、フロイトが提唱したとおりの形で「再評価」するというのは、どだい無理です。「ペニス羨望」も「夢判断」も、とうてい丸呑みできる内容ではありません。
そこから、「新フロイト主義」とか「サイコドラマ」「力動的発達療法」などの、「潮流」が登場していくわけですが、それらはみな、フロイト理論の中で、現代でも人々を納得させられそうな部分を抽出し、さらに自分の得意分野に適用する上で、都合の良いように「改善」を施した方法論なのです。
それを最初にやりながら、「正当派フロイト主義」と堂々と公言した人の1人が、フロイトの娘さんであったアンナ・フロイトでした。彼女は、「イド、自我、超自我、これら三つの部分について完全な知識を得ることが精神分析の課題である」というようなこと述べています。
私自身は、このモデル自体が「疑わしい」と感じているのですが、「近代フロイト派」が主張し続け、心理学の学生ならテストで一度は書かされるこのモデルについては、まだ無視できないモデルということが言えます。
そのあたりについては、いずれまた。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.05 17:00
精神分析学派
2007.10.04
それなのに、現代のように精神症と神経症が「流行っている」かのように報じられる時代になると、当たり前のように心理学用語やカウンセリング用語にぶつからなければならなくなります。
カウンセリングを受ける人もそうです。メンタルヘルスセンターに通う人もそうです。難しい用語にぶつかった人としては、そういうところで、困惑を禁じ得ないはずです。
実は、少しくらい心理学をかじった私のような人間にとっても、「困惑」はやはり禁じ得ないのが実情です。用語にせよ概念にせよモデルにせよ、有名な心理学者の数だけある、といっても言いすぎではないほどなのです。
「困惑」の最大の源になっている心理学者の一人に、「フロイト」がいます。しかも日本では、「フロイト」と同じくらい「ユング」がビッグネームになっているという、世界でも1・2を争うほど希な事情のために、「困惑」はいっそうぬぐいがたいものとなってしまっています。
なぜ、「フロイト」が「困惑」の源なのか?
たとえば、「精神分析」というどこかで耳にしたはずの言葉は、フロイトが「教祖」となっている心理学の一派の方法論なのです。
この「精神分析」という「方法」に、心理学者や精神科医の、誰もが納得しているわけでも賛同しているわけでもありません。というより、心の底では反対している方が圧倒的、と言ってもいいような現状です。
フロイトへの強力な反対陣営に、「行動主義」勢力がありました。その「行動主義者」が「精神治療」のために編み出した「方法」は、「行動療法」と呼ばれました。
「行動療法」や「認知行動療法」という言葉もどこかで耳にされたことがあるかもしれません。
この流れからも分かるとおり、行動主義者が考え出した「行動療法」と、フロイト一派の得意とする「精神分析」は、対立関係にあります。両者はほとんど、水と油なのです。
ところが、もはやそんな事情もよく知らされていない人の耳には、「行動療法」も「精神分析」も同じような心理学用語であって、同じように「神経症」や「精神症」を「治す」ための方法ということになるでしょう。
それでも、どちらの方法もかなりの程度有効で、かたや95%の人に効果的で、かたや97%の人に有効、というのならいいのですが、全然そうではないのが実態なのです。
しかも両者の錯綜などはほんの一例に過ぎず、もっと色々な「セクト」が心理学の世界にはあって、もっと色々な「療法」があるのが実情です。しかもどれも、「治療効果」に決め手を欠いているというのが現実なのです。
一番の問題は、自分がどのような「セクト」を頼りにすればいいかが、クライエントの側にはさっぱり分からないという状態です。そもそも、自分がどのような「セクト」を頼っているかすら、よく分からないことがふつうでしょう。
最近話題の「うつ」1つとっても、「精神分析的」に診るのと、「認知行動療法的」に診るのと、「脳神経的」に診るのと、「宗教カウンセリング的」に診るのとでは、それぞれずいぶん違うはずです。
しかもそれらはどれも「一理ある」見方であり、しかも全部を「協力させて」治療するより、どれか1つのやり方を貫いた方が、効果的ということもよくあります。
といった話を、これからときどきしてみたいと思います。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.04 21:50
煮え切らないのはわけがある?
2007.10.02
うつ病の患者さん「あの、仕事の面接受けに行くとかは、大丈夫でしょうか?」
医師「まあ、それはもう少し様子を見てから。しばらくすれば、徐々に慣らし運転もできるようになっていくと思いますし…」
患者(しばらく沈黙してから)「しばらくというと、だいたいどのくらい…」
医師「そうですねえ…まあここまでは経過も悪くないですし、徐々に様子を見て、それからでしたら…」
患者(食い下がり足さそうなそぶりを見せながら)「今はまだ難しいということでしょうか…」
医師「今は…そうですね。あまり無理をされるといけませんから。あと数日から数週間は、徐々にならしていけばですね。うつ病というのは、無理をすると(ここでわずかに力が入ってくる)ぶり返すことが多い病気でですね…」
患者「再発ということでしょうか?」
医師「ええそうです」
これを聞いていた友人から突っ込まれたわけですが、「何でこの医者は、こんな風な話し方をするんだ?」といわれたわけです。「私に言われても…」というのが本音なのですが、言わんとすることも分かる気がしたので、ちょっと考えてみました。
「お腹が痛い」というような病気と違って、精神のバランスを崩した病気は、原因がこうで、経過はこうで、投薬するとこうなって、予後はこうなる!ということが、明確に分かるわけではありません。
実際には、腹痛だってそこまで手に取るように分かるものでもないような気がしますが、しかし腹痛の場合おおむね、原因はこうだ(腐ったものを食べたとか)から対応はこうだ(投薬)という、かなり明快なパターンがあります。
でも普通、精神障害に明確な「原因」は特定できません。できる場合もあるでしょうが、できない場合がたくさんあります。
この「原因」を特定して「対処」の仕方を割り出すという、私たちが馴れきっているやり方とは、だいぶ違ったやりかたを精神症には適用されているために、話がややこしく見えるわけです。
うつ病などもそうですが、一般にお医者さんは、症状を見ながら、それに対処しつつ、寛解に誘導していく、という流れに沿っています。そのため、患者さんは聞きたいこと(いつ治るんだ?)がなかなか聞けず、見通しも(今はどういう状態で、今後は、どのくらいでどうなるの?)はっきりさせてもらえず、時に不信感に苛まれます。
そしてそうなりがちなことも、そうなる理由も、お医者さんの方はよく知っているのですが、だからといって自明でもないことを自明のようには言えませんから、「こういう言い方」になるのでしょう。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.02 16:43
よい思い出を作っておく
2007.10.01
「こういうときに、社会資本を残しておかないといけない。お金はいつか消えてしまうから」
といっていたのを思い出します
この発言には多少とも「左より」な印象を受けますが、精神衛生の上でこれと同じ事を心がけておくことは非常に大事、と個人的には思っています。
つまり心理的に調子の良いとき(病気でないとき)に、「よい思い出」をたくさん残しておくのです。「資本」として。
これは子供だましのほのぼの話ではなくて、とても真剣な提案です。
ときどき胃腸の具合が悪かったり、飛行機に酔ったりして、ものすごく苦しく、脂汗がにじむほどつらいのに、どうしようもない時ってありませんか?
私はそういうとき、いつも決まって最後の救いになるのは(姿勢を変えることもクスリを飲むこともできないときは)、「よい記憶」だったことを思い出します。
それも極限状況に近いときほど、記憶力も異常に減衰し、「たった1つのこと」しか思い出せなくなるのです。くだらないことでも良いのですが、とにかくとても「よかった思い出」です。その記憶を頭の中で追いかけ続け、ぷっつり切れないように「がんばる」のです。
もしもそのとき「ぷっつり切れる」ような何かが起こったら、少し「やばい」事になっていたと、私は思います。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2007.10.01 19:08








