「時間の見つもり」と「ダーツ」
2009.12.11
12月9日のセミナー参加者の方から、非常に丁寧にセミナー感想をいただきました。このブログ記事には、私の「時間管理法」について詳細な「疑問」が投げかけられていましたから、ちょっと考察させていただきます。
あらかじめお断りしておきますと、私のやっている「タスクシュート方式」に疑問が呈されたのは、これが初めてではありません。それどころか、本に書いてもセミナーでお話ししてもブログで記事をアップしても、ほぼ必ず何らかの疑問や「違和感」を投げかけられます。
ですから、この種の違和感は異常なものではなくて、ごく自然なものだと思います。ただ、このように丁寧に考察していただくのはめずらしいので、私としてもどういうつもりで自分のようなことをやっているのか、お答えしやすくなりました。
記事は、以下の記事です。引用も、すべていかの記事からの引用です。
枠だけの真っ白なキャンバスのような時間
http://kzs-gtd.blogspot.com/2009/12/blog-post_10.html
自分の行動内容とそれに要する行動時間を見積り、その通りに実行していくというもので非常に合理的だし正論だしスゲーなぁ!と思ったのですが、聞いているうちに、ものすごい違和感を覚えたのです。何故か?なぜでしょう? それは続きを読んでいけば分かります。
「デートの時間」とかそれこそ「夜の営み」とかも時間を見積って、見積りどおりに終わらせるの?という非常に邪で、底意地の悪い疑問が生じてしまったのです(笑)
まず「デートの時間」ですが、これは今なら「見積もる」でしょう。(「夜の営み」は「睡眠時間」に含ませてしまうと思います)。しかし私は、これは誰だって見積もっているのだと思っています。ただそれを、記録したり、デジタル入力しないだけです。
「見積もり」とは、「予測」です。「そうしよう」としているのではなくて、「そうなるだろう」と推定しているのです。デートは相手あってのことですから、当方が「明日の朝まで」と勝手に「見積もり」を立てていたところで、相手が「終電まで」と決めていれば、どうにもしようがありません。(「そこをどうにかするんだろ!」というのは、私の性格に合わないので、ご容赦願います)。
確かに人が違和感を覚えるであろうことに、私は「見積もり時間」を「明記」します。他の点では他の人と変わらないと思っていますが、この点は私の異常性を示すものではあるでしょう。
なぜそういうことをするかというと、私は過去の自分がどういうつもりでいたかを、可能な限り知っておきたいのです。 認知的不協和理論で典型的に示されているとおり、自我、「自分」というものは、自尊心のためなら、何だってやりそうです。
E・ロフタスの「歪曲する記憶」でもこの問題が出てきます。私は自分に何でも都合よく解釈しようとする自我に対して、「おまえはそうは考えなかった!」(「彼女とお泊まり」と勝手に予測し、勝手に裏切られ、勝手に傷ついたあげく、「そうは考えなかったのさ」と平気で自分にウソをつく)という証拠を突きつけ続けたいのです。そうすることで徐々に、「時間予測力」と「状況予測力」というものを、信頼できる方向へ持っていきたいのです。
絵画に例えれば、余白を管理するってことでしょう?自宅でやることって(多少、仕事も)そんな何もかも全部管理するべきなのかなァ?という疑問があります。
まさに、このような違和感を多くの方に与えているのだと思いますが、しかし私たちは、過去のある時点で、「今日は○○をしよう」と、きわめて微細な意識であっても、意図しているのだと思っています。
記録するようになって、少なくとも私自身に関しては、この事実は明白になりつつあります。確かに実際にはやらないことが多いですが、「今日は帰宅したら自分で料理しよう」とかちらとでも思ったりするのです。
その時に「やるべきこと」じゃなくて、その時に「やりたくなったこと」を好きなだけ自由にやっていい寝るまでの時間。管理する時間じゃなくて、自分自身の為の”枠だけある真っ白なキャンバスのような時間”を設けてあげるだけで、ゆったりゆっくり「その時やりたくなったこと」を安心して楽しめるし、リラックスできるし、自分らしく居られるんじゃないかなぁ?
だからまさしく、このようなことが問題になるのです。私もその点、違いはありません。以前どこかのブログにも、「佐々木の生活は、囚人と一緒」というようなご指摘がありました。
囚人とは違うのです。なぜなら、私の行動に指示を与えているのは、「看守」ではなく、「過去の自分」にすぎないからです。しかも、無視しても罰されることはないからです。
ただ、「その時やりたくなったこと」(現在の自己の衝動)と、「過去やろうとしたこと」(過去の自己の衝動)の、どちらを優先させるべきかという葛藤には、私はもっと関わりを深めたいと思っています。
あらゆることをやる、たとえ直前にでも、「これこれをやる。とりあえず何分で満足すると思う」と意識的に投げかけ、それを記録するのは、ダーツ投げに似ていると思っています。
真ん中を狙っても、当たりはしません(私はあれが下手ですから)。しかし、「真ん中を狙った」という事実を書いておくと、意図と結果のかい離を見ることで、予測の修正はしやすくなるでしょう。
結果的に見積もりが失敗に終わっていることはありますし、直前に「娘の顔を見る」というタスクを割り込ませることもあります。(特にセミナーへ出かける前とか)。でもそれすらも「記録はする」のです。なぜなら、「意図が行為に先行していた」という事実を、自分に思い知らせたいからです。
そして時間の総和を変えていくのです。これは、「未来の自分を犠牲にするつもりでいるよ」という「意図」があることを、過去、現在、未来の自分に、やはり思い知らせておきたいからです。
たしかに、「心ゆくまで娘の顔を見て過ごすべきじゃないか?」と言われれば、そういう気もしますが、しかし、そこで二十分を使えば、二十分、寝る時間が犠牲にはなるのです。
私は寝るのが大好きですから、ここに葛藤(接近-接近の葛藤)があるのに、葛藤をあいまいにしておきたくはありません。 寝る時間を犠牲にしたって、いいのです。でも、「好い時間を過ごしたのだから、本当によかったのだ」というのは、私には、一種の認知的不協和の解消と思えるのです。
投稿者 : 佐々木 正悟 | 投稿日時 : 2009.12.11 14:00





